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2017.07.03カテゴリ:
映画評:チャック・ベリーあるいは剽窃されたアメリカの魂 (『キャデラックレコード』(2009年))

チャック・ベリーの訃報を聞いて最初に思ったのは、むしろ、彼が存命だったということだった。ロックンロールの創成期は、あまりに神話化たためか、随分、昔のことのような印象が強いのだ。

文字通り、彼は、音楽の革命児だった。

 

8年前の傑作映画キャデラックレコードの中でも、チャック・ベリーが描かれている。

この映画は、欧米のポピュラー音楽が、黒人の魂を節操なく剽窃する形で生み出されていることを「美しく」描き出していた。

チャック・ベリーは、剽窃された魂そのものなのだ。そして剽窃という起源はゆるやかに隠蔽され、アメリカ音楽の魂そのものに昇華した。

欧米だけじゃなく、日本でも捩じれたレイシズムと、幻想の純潔主義という過去の亡霊に息を吹き込もうとするものがあたりに異臭をまき散らすようになってきた。無数の悲劇を超えて尚、単一民族とか民族の純粋性などという醜悪で危険な幻想がいまだに止揚されえないことに、人間の歴史の辛さがある。

キャデラックレコードという映画は、演奏される荒削りな魅力に満ちたシカゴブルースやR&Bを聴くだけでも、おつりがくるような映画だ。

監督は、Darnell Martin.

 

1950年代シカゴブルースの黄金期にMuddy Waters, Little Walter, Howlin’ Wolf, Chuck Berry、 Etta Jamesなどの黒人の才能を束ねたのが、ポーランド移民の子であるユダヤ人Leonard Chessだった。

ChessがジャズギタリストMuddy Watersと出会うところから映画は始まる。Muddyの兄弟分の天才的ブルースハープ奏者Little Walterが新興チェスレーベルを成功させていく。Chessは印税代わりのように、ミュージシャンにキャデラックを与える。当時の黒人たちにとってはきわめてわかりやすい成功の証だった。

 

実話に基づくといわれても、かなりアメリカ大衆音楽史の教養がなければ、チャック・ベリー以外は知らないというのがあたりまえのような時代である。ただ、この映画が繰り返し伝えるメッセージだけは明らかだった。

アメリカのポピュラー音楽を作ったのは黒人の魂であり、それが漂白される過程で、全世界の一般大衆を巻き込んでいったという歴史的事実だ。ある時期までは、この事実は確信犯的に隠蔽され、その後は、時間の経過の中で、どうでもよくなったという形で忘却されるままになっていったのだろう。

Muddy Watersに憧れるイギリスの青年たちのバンド、ローリングストーンズとの交流など、楽しいエピソードなども挿入される。(映画の最後に、演奏者たちのその後がテロップで流れるところで、Howling Wolfの墓地代をクラプトンが支払ったというあたりなど最高だった。)

 

この映画自体、かなりハリウッド的に漂白された意識の中で撮られているが、それでも、やはりこの映画の根幹は、白人プロデューサーのLeonard Chess (Adrien Brodyが差別意識のない解放者であり、搾取者でもあるという矛盾した存在を、淡々と描いていて素晴らしかった)とMuddy Watersがお互いを利用しあいながら、信頼しあいながらも、やはりあくまでも黒人と白人であるという痛切な関係性が見事に描きだされている。

 

薬漬けで最後には暴力沙汰で命を失うLittle Waltersの葬儀に現れるHowlin’ Wolf (演じているEammonn Walkerのブルースは凄い迫力だった)が、ChessとWatersに言うセリフが痛切だ。Wolfは常に、Chessに依存しつづけるMuddyに批判的だった。

「His job is to make money off you. You’re fromMississippi. I thought you would have known that.」

(チェスの稼業は、おまえをだしに金儲けをすることだ。マディ、おまえはミシシッピ出身だからそんなことはとうにご存知かと思ってたよ。)

 

(アメリカのロックと)ブリティッシュロックシーンとのもっとも大きな違いは、肌の色の違う人種が常に身近にあるということで、それはよくも悪くも異文化交流とでもいうべきものが行われるということだ。ただし、黒人側から白人側に流れていくばかりで、白人側から黒人にわたされることは殆どない。なんの話かといえば音楽文化のことで、鬱陶しいことはあまり書きたくないが、搾取とは文化までをも含むということなのだ。

 ロックに限らず、ある芸能を、ある文化を語るとき、この視点を忘れてはならない。搾取する側は、単純な経済的要素だけではなく、搾取される側が営々と積み重ねてきた文化までを搾取する、ということだ。

 けれど俺は、そしてあなたは、白人の演奏するロックを愉しんでしまっている。場合によってはアイドル視して、憧れる。ここはひとつ、ニヒルな笑いをうかべて現状を受け容れてしまおう。原理主義を持ちだして、黒人音楽以外は悪魔の音楽であると騒ぐのは簡単だが、原理主義という画一を、つまり楽な方策を選択したとたんに、言い方は悪いが、あなたは痴呆化してしまう。

 芸能でも芸術でもいい。ある文化の搾取が大きく花ひらくことがあるのである。モディリアーニが黒人芸術から盗んだからといって、モディリアーニの芸術を否定するのはどこかおかしい。現出した作品がよいものであるならば、それは幸せな混血であるそういうことなのだ。表現には結果しかないともいえる。

 けれど私たちは、常に心のどこかにオリジナルに対する崇敬の念を隠しもっておくようにしよう。白人の演奏に胸を打たれたなら、ときにはそのオリジナルを辿ってみよう。」
(花村萬月「俺のロック・ステディ」)

 

花村のこんな批評性を、証明するために作られたような映画だ。

(ビヨンセは見事な演技で、素晴らしい歌いっぷりだが、ほかのブルースに比べれば、あまりにも漂白されすぎていて、あるいは、非黒人の耳があまりにR&Bの音に慣れすぎてしまったせいか、他のミュージシャンのようなざらざらとした生命感を感じなかった。これはぼくだけのことかも知れない。)

 

ポピュラー音楽は、黒人の魂を盗むことで、奔放に咲き誇ったのだ。

 

【映画評:by紙魚】