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書評:伊藤計劃という想像力のかたち『虐殺器官』

SFというものが、読書の中心にあった時代はとうの昔だ。

 

学生時代、海外のSFが中心で、アーサーCクラークの「幼年期の終わり」などの傑作に思考の根源のあたりをゆすぶられるような感動を味わった記憶がある。

その後、完璧に社会化される過程で、ぼくは、自分の目の前にある現実の表層を理解するための読書に吸い込まれ、圧倒的な安定感を持つ現実という閉域の中での穴埋めゲームに熱中した。

そのあいだ通信をめぐるテクノロジーの進化が加速し、気づけば「あの頃の未来」の風景が自分の周囲を取り巻いている。しかし、周囲の「現実」は、かつてぼくを取り巻いていたものと同じような安定感を持ち合わせてはいない。

メタルギアソリッドの世界のような、オルタナとしてコンピュータによって再構成された現実のようにさえ思える。

 

こんな時間の経過と、環境の変化を踏まえて読んだ、伊藤計劃の「虐殺器官」に圧倒された。

読んでいる最中も、読み終わったあとも、のべつまくなしに、細部から立ち上る知的な香気が、外部へのベクトルを生み出し、ぼくを、新しい関心へと連れ去ろうとする。

良い本というのは、読んでいる過程で、新しい知の方向への誘いを多数包含しているものである。

舞台は911以後の世界だ。

サラエボで核爆弾が爆発し、一瞬に多くの人命が失われた。

それをきっかけとして、「世界は発狂しようと決意し」地球上のいたるところで内乱や紛争が多発するようになる。そしてそのほとんどの場所で「看過すべからざる人道に対する罪」=大虐殺が生じるようになったのだ。

米国は、反テロ戦争のためという大義のもと開発された、さまざまな通信技術や、生体認証技術に取り囲まれた高度なセキュリティ社会になっている。人々は、安全のために自らの自由の一部を自発的に譲り渡すようになっている。

 

『ある自由を犠牲にして、別の自由を得る。ぼくらは自分のプライベートをある程度売り渡すことで、核攻撃されたり、旅客機でビルに突っこまれたり、地下鉄で化学兵器を撒かれたりすることなく生きていける。』

 

米国政府の最近の懸念は、世界で内乱が生じた地域に、出没すると噂される米国人コンサルタント、ジョー・ポールがの存在だ。「虐殺が内戦というソフトウェアの基本仕様と化したかのような」世界の中で、そのソースコードを書いた男、虐殺の王。

高木徹が傑作ノンフィクション「ドキュメント戦争広告代理店」でボスニア紛争で大活躍する米国のPR会社のコンサルタントを想起させるような男だ。

彼が関わった国家では、事後にかならず紛争が悪化し、自国民族あるいは、国内の少数民族を巻き込んだ大虐殺が生じるのだ。虐殺の巡礼を行う謎の男ジョン・ポールを、米国情報省の暗殺部隊が追跡する。

主人公のクラヴィス・シェパードは、近未来技術で知覚も意識も武装した辣腕のブレードランナーだ。

追跡先のプラハで、ポールで対面した、主人公に明かされる虐殺のソフトウェアの鍵としての「虐殺の深層文法」言語という「虐殺器官」。

ポールの活動の背後に隠れるより大きな陰謀を、心に闇を持つ主人公が、その任務をおおはばにオーバーランしながら追いかけていく。そして、その論理の当然の帰結として、訪れる驚愕の終末。

人間とは、民族とはということをめぐる先鋭な理論を踏まえた、鋭利な論理が、まっしぐらに結末へ向かって進んでいく。

そういった加速する論理がこの小説の魅力だ。しかし、その直進するロジックだけで、伊藤計劃の傑作の魅力を言い切ることはできない。

まさに神は細部に宿るのだ。

ストーリーとロジックを多層的に包むように行われる環境についての表現が素晴らしい。そこには映画的というよりは、コンピュータゲーム的な執拗さで、ひとつの世界が書きこまれている。

 

たとえば、戦闘シーンを描く際の、生体を偽装するテクノロジーのこんな描写。

『 ぼくらは手近な廃墟に隠れると、それらを地面に埋めて隠し、侵入の段取りを確認しあった。体に名のコーティングをスプレーし、敵から奪ったショルダーポーチに隠した端末を操作して、環境追随明細のソフトウェアを起動する。偽装アルゴリズムによって生成されたカモフラージュパターンのグラフィックは、対内の塩分を伝道してデータ転送され、服や装備に吹きつけられたナノコーティング層がそのデータを表示する。
一瞬のうちに、ぼくらは廃墟の弾痕だらけの壁に、完全に溶けこんでいた。

(略)

数分にわたって体を密着させているうちに、元准将の第一種軍装の色を、その色とりどりの勲章を、ぼくの体の明細が追従しはじめた。まるで相手の狂気がぼくの体に乗り移ってくるように思え、背筋を冷たいものが這い登ってきたが、相手の腕を決めつつ喉許に刃を突きつけているこの姿勢ではどうしようもないことだった。』

 

さらには、近未来の都市の街路を描いた描写。

『人気の多い通りに出ると、視界が唐突に騒がしくなった。存在しない看板で副現実(オルタナ)が溢れかえったのだ。

観光都市であるプラハは、とにかくオルタナが充実している。店という店に、街路という街路に、これでもかというくらいの情報が貼りつけられている。それら溢れかえった文字情報が、百塔の街であるプラハの景観に香港のネオン群か、リドリー・スコットが想像したロサンゼルスのような混沌を付け加えてしまっていた。存在しないネオンによる、現実の風景への膨大な注釈の山。店の種別、営業時間、ミシュランの評価。代替現実は観光客向けの広告が幾重にも折り重なるカスバと化していた。

計画を立てなければならない。

ぼくはタッチボードを探した。オルタナを充実させているプラハの歩道は、そこらじゅうボードだらけだ。キーボードのイラストが書かれた合成樹脂の板が、いたるところで観光客に顔を向けている。ぼくはボードの前に立って、それを三秒間見つめると、コンタクトが絵をインタフェースとして認識した。キーボードを叩くようにイラストに描かれたキーに触れていく、キーを「押した」手ごたえのような贅沢を求めない限り、本物のキーボードは必要ない。赤い線で抽象化されたキーが描かれていた板でじゅうぶんだ。

視線検出で文字を見つめるだけで入力可能なデバイスも一時期もてはやされたが、一文字一文字視線を移動させるより、指でキーを押したほうが断然スピードが速かったために、視線入力はあっという間に廃れてしまった。

プラハの観光情報をカットアウトするフィルタを起動させて、USAにアクセスする。』

 

一つの論理を徹底して追求するという線のベクトルと、ありそうだが、どこにもない世界の全体を立体的に構築しようとする建築的な意志が複雑に交差するところに、この作品の魅力がある。

しかも、こうやって構築された世界の中で、さまざまなストーリーや、論理が自己生成する可能性が感じられる。だからこそ、作者の夭逝はあまりにも痛切である。しかし、おそらくは自らの寿命を意識した作者だからこそ、荒削りでも、ひとつの世界を構築しえたのかもしれない。

 

僕はこの小説を読みながら、自分がこのジャンルから遠ざかっていた時期に、現実とSF的想像力との間で行われていた烈しいデッドヒートのことを思った。

そして、そういったSF的想像力によって再帰的に構築された日常が、コンピュータゲーム的(世界構築的)想像力という強力な表現形式を得ることで、未曽有の迫真性が生まれ、世界を表現するという意味でのジャンルの力を再び装備しはじめているのかもしれない。少なくとも、読者としてのぼくは、SFというジャンルにふたたびはげしくひきつけられている。

 

【書評:by 紙魚】