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コラム

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書評:種を蒔く人(水上勉 『櫻守』)

朝起きたら、まず、アランの幸福論の一章を読むことにしている。

 

第89章は「幸福は徳である」。

アランの幸福論の核心は、幸福になるのは、その人間自身の責任であるということだ。

他人を幸福にしようなどということに、徒に、時間を使う愚を諫めている。曰く、他人にできるのは、既に幸福になった、その人間の幸福を増すことだけなのだと。

 

マタイ13章に「種まく人の譬え」がある。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」

アランは、この譬えの意味は、「砂の中に種を蒔いても何の役にも立たない」ということにあると気づいた。

そして幸福こそが、まさに、力を意味する美しい徳という言葉が示すものなのだ。

「全き意味において最も幸福な人は、着物を投げ捨てるように、別の幸福などまったく平然と舷側の外へ投げ捨てる人であるのは自明だからだ。しかし彼のほんとうの豊かさは棄てない。棄てることができないのだ。突撃する歩兵や墜落する飛行士でさえもそれはできない。彼らの魂に親密な幸福は、彼らの生命と同じほど深く、彼ら自身と釘で打ちつけられている。彼らは武器でたたかうのと同じように、自分自身の幸福でたたかっている。そこから、倒れる英雄のなかに幸福があると言えるのである。」

おそらくアランの周りには、この徳というものを具体的に体現した人々がいたのだろう。この至言の意味を、一目瞭然で、他人に知らしめるような人生だ。

 

東京で今年の桜が満開だった頃、僕は、『櫻守』という美しい小説を読んだ。水上勉が、日本の桜を守るために、全財産を費やした篤志家竹部の傍らで、その苦闘を支えた職人北弥吉の人生を、流麗な京都弁を駆使して描き出している。

日本の桜を愛し、それを見守り続けた老職人に、死が訪れる。余命を知った男は、妻と、息子に、彼が長年、無償で見守り続けた桜の見える寺に埋葬して欲しいと遺言する。

 

しかし、檀家以外のよそものの埋葬が容易に認められるはずもないと、遺族は、竹部に相談する。

「わたしは、正直、北さんがここへ埋まりたいいうて死なはったときいて、えらいこっちゃと思いました。日本は桜の国です。埋まって死にたいと思うような桜は仰山ありますけど、桜の下に埋まって死ねるということは、なかなか出来ることではなく、恵まれた人やなと思いました。北さんは、ここの出の人やない。ただ、ここの桜が好きで、ひまがあると守りにきとられた…それだけの縁どす…お寺の和尚さんや、檀家の有志の方が即座に承知してくれはるとは…わたしも、考えてませなんだ。北さんも北さんなら、村の人も村の人ですよ…桜を守りにきてくれはった職人さんやということで…こんなに親切に埋めてくれはります…わたしの力なんぞやおへんで。北さんの徳ですわ(略)

人間、死んでしまうと、なあんも残らしまへん。灰になるか、土になるかして、この世に何も残しません。けど、いまわたしは、気づいたことがおす。人間は何も残さんで死ぬようにみえても、じつは一つだけ残すもんがあります。それは徳ですな….人間が死んで、その瞬間から徳が生きはじめます…北さんを桜の値へ埋めたげようという村の人らも、わたしらも、北さんの徳を抱いておるからこそやおへんか。これは大事なこっとすわ」

 

幸福になるには、先ず、自分の中に、幸福の種を埋めなければならない。そのほかの何を捨てたとしても、捨てきれないものが、その人の幸福であり、幸福の種なのだ。そして幸福の種を一人で黙々と育てる力のことを徳と呼ぶのだ。

アランの幸福論を体現する人生が、僕たちのまわりに息づいてた時代が確かにある。もう一度、あたりまえの眼でそれを見回してみるべきなのだ。そして、自分の中に、幸福の種を独力で植えるところからまずは、始めることなのだ。

 

【書評: by紙魚】