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コラム

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書評:学校、家庭、そしてかけがえのない私

 

教育の現場の荒廃等について叫ばれること久しい。そういった主張のある部分は正しく、ある部分はとんでもなく間違っているのだろう。実は、あまりそこの部分に興味はない。紋切り型で語られる教育には、何の興味ももてない。

そんなことを考える上で、2005年に内田樹が書いた「先生はえらい」はきわめて具体的かつ現実的な刺激を与えてくれる。青少年向けの新書ではあるが、彼の最良の思考が展開されている。何度も読むに足る本である。

『いまの若いひとたちを見ていて、いちばん気の毒なのは「えらい先生」に出会っていないということだ(略)。』

ここから内田の根源的思考がすぐに開始する。

内田は先生をこう定義する。

自分がえらいと思った人、それがあなたの先生である。

こういった逆転から、この本は、人間が誰かをえらいと思うのは、どういう場合かという哲学的思考を展開する。

先生をえらくするのは、学ぶ側の生徒の思いこみの中にあるというのだ。じゃあ学ぶということの本質は何かと内田はつきすすむ。

「ある種の知識や技術を、それを所有しているひとから、何らかの対価と引き換えに授与されること」という普通の定義を彼は否定する。

自動車を運転する技術を学ぶ場合を具体例として彼は立論する。

『自動車運転技術や交通法規はまちがいなく有用な知識や技術です。それを教授してもらったのに、どうしてみなさんはそれを与えてくれた人を尊敬することができないのでしょう?』

じゃあ、FIドライバーのシューマッハにアクセルワークを教わった場合と自動車教習所で同じ技術を教わった場合ではどうか。なぜ人はシューマッハには敬意を持つ可能性が高いのか。

『二人の先生はどちらも、あなたに自動車運転技術という同じものを教えました。でも、あなたがそこから学んだことが違います。先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。』

シューマッハは、技術は定量的なものではなく、完璧な技術というものに人間は達することができない、この道を甘くみちゃだめというメッセージを発しているというのである。

『ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生」と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレヴァス」があります。』

こういう、わかりやすい例を踏まえながら、彼は、学びの主体性ということを語る。

『学ぶということは創造的な仕事です。それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。だからこそ私たちは学ぶのです。私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。私たちが先生を敬愛するのは、先生が私の唯一無二性の保証人であるからです。』

自分のかけがえのなさを確認するために、自分は学ぶ。

そうなのである。

いくらお金儲けや、出世のための技術論があっても、どこかで、そういったものは学び続けられなくなるのである。時折は、そういった寄り道はあるのだが、人間が生き延びるために必要な学びは、自分はかけがえがない存在だという確信を得るためなのだ。

自分のことを考えてみる、僕は、傍から見れば、鼻持ちならないほどの自信家だったはずだ。

でもこういった自分に対する自信が多くの困難の中でぼくを支えたのも事実だ。

 

人の親になって初めて、親がくれたものがわかった。

それは根拠のない愛情だった。

特に母親の親ばかとしかいいようのない根拠のない息子に対する自信が僕の中の自分に対する完璧な肯定感につながった。

親になって見ると無根拠性というものがそれほど容易ではないことがわかってくる。条件付きの愛情というものがかなり手強い代物だからだ。

芹沢俊介は「ついていく父親」という本を書いた。

 

学校の崩壊と家族の崩壊を、資本の論理が社会のすみずみまで貫徹した結果であるという分析は、かなり説得力があった。

彼は、現代の家族をめぐるさまざまな問題の根源にこの条件付の愛情があるとする。

そして、多くの家族問題を超えていくためには、こういった家族の市場化のような状況に対抗できる家族の論理の必要性を提起する。

『家族のエロスとは・・・家族の「受けとめる力」のことである。受けとめられているという感じを持てない子どもは、家庭に自分の居場所を見いだすことができない。子どもが居心地のよさを感じることができないような家庭は、母にとってもまた座り心地がいいはずがないだろう。

母親が子どもを自分の支配下に置こうとしたり、子どもの教育にのめりこむ姿は愛情ではなく、まったく逆に家族のエロスが母の内部で減衰したり枯渇したり、停滞したりしていることの現れである。

母の内部で家族のエロスが危機に瀕している要因の少なくとも半ばは父に帰せられる。性的情愛を核にした夫婦の紐帯と慈しみあいが作る安定的な親和性が家族のエロスの基盤だからである。』(芹沢俊介)

 

資本あるいは企業社会の論理が家族の中に無批判に注入された形態を芹沢は教育家族と呼ぶ。その中ではあらゆる行為が教育的価値によって測定されることになる。

父親は家庭の外の社会でその生産性によって測定される。

家庭において、教育的価値が同様な働きを果たす。性別による分業の中で、子どもを教育的価値の中に追い込む役割を母親が果たすことになり、そういった社会装置としての役割を果たせば果たすほど、母親の家族のエロスは枯渇していく。

女としての性的な枯渇と、母親としての無根拠性を失う中で、最も弱い子どもは「炭鉱のカナリヤ」よろしく、悲鳴をあげ、居場所を失い、母親もからからに乾いていき、父親は呆然と立ち尽くす。

 

根拠のない愛情によって育ち、自分の意味を確認するための「学び」のために、先生と出会う。それは確率的に低い、稀な幸運なのだろうか。

マスコミが偏執的に繰り返す家庭崩壊の報道を見るにつけ、そんなことを思ってしまう。

自分を市場価値、他人にとっての価値で測定されやすくするための努力だけが学ぶことだという貧しさ、それが、今の教育のつまらなさ、たまらなさのような気がする。

家庭と職場と学校がよってたかって、子供たちを商品に変えていくというストレスきわまりない光景。

そんな時に、内田のくりだす先生論は、極めて哲学的に、その状況を一度にひっくりかえすようなインパクトを持っている。こういう身体性につながるような、根源性がマニュアルとしての内田の魅力なのでもある。

 

 

【書評:By 紙魚】