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書評:先生はえらい

 

内田樹さんの文章は癖になる。インターネットというメディアを活用しながら、自己生成していく内田的思考はとても魅力的だ。エマヌエル・レヴィナスと合気道と世の中に対する見識が微妙にブレンドした発言が、深く、高度な、処世術となっているところがいい。

人間が迷ったときには、理論ではなく、マニュアルが必要だ。年とってくると、皮相なマニュアルでは食い足りなくなってくる。年齢相応な、死生観を持つ、深みがありながら、それでいて実践的なマニュアルが必要になるのだ。

内田さんの本にはそういう香りがある。

そうでありながら、どんな発言にも彼独特のヒネリ、一定の根源性をはらんでいるところがミソだ。つねにものごとを根源的に考えるという姿勢が、対象物を問わず横溢している。

 

その彼が、ちくまプリマー新書という中学生や高校生対象の新書シリーズで、先生について書いた。(「先生はえらい」)。これはもはや古典といってよい水準に達している。古典とは、時代を超えて、くり返し読むに値する本という意味である。

 

教育の現場の荒廃について叫ばれること久しい。そういった主張のある部分は正しく、ある部分はとんでもなく間違っている。

でも実は、あまりそこの部分に興味はない。紋切り型で語られる教育には、何の興味ももてない。僕には、内田さんがどのような切り口で語るのかの方に興味がある。

『いまの若いひとたちを見ていて、いちばん気の毒なのは「えらい先生」に出会っていないということだと私には思えたからです。』

 

冒頭、意外に、あたりまえのところから来たなと思った。ただ、内田には騙されてはならない。そんな、あたりまえの紋切り型で終わるはずがない。

ここらあたりから、内田の根源的思考がはじまる。内田は先生をこう定義する。

自分がえらいと思った人、それがあなたの先生である。

こういった逆転から、この本は、人間が誰かをえらいと思うのは、どういう場合かについての哲学的思考を展開しているのである。

 

曰く、先生をえらくするのは、学ぶ側の生徒の思いこみの中にあるのだと。じゃあ学ぶということの本質は何かと内田はつきすすむ。

「ある種の知識や技術を、それを所有しているひとから、何らかの対価と引き換えに授与されること」という普通の定義を彼は否定する。

自動車を運転する技術を学ぶ場合を具体例として彼は立論する。

『自動車運転技術や交通法規はまちがいなく有用な知識や技術です。それを教授してもらったのに、どうしてみなさんはそれを与えてくれた人を尊敬することができないのでしょう?』

じゃあ、FIドライバーのシューマッハーにアクセルワークを教わった場合と自動車教習所で同じ技術を教わった場合ではどうか。なぜ人はシューマッハには敬意を持つ可能性が高いのか。

『二人の先生はどちらも、あなたに自動車運転技術という同じものを教えました。でも、あなたがそこから学んだことが違います。先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。』

 

このあたりは、調理場という戦場の斉須さんや、又五郎の春秋の中村又五郎のような素晴らしい教師の特徴とつながってくる感じがする。

シューマッハは、技術は定量的なものではなく、完璧な技術というものに人間は達することができない、この道を甘くみちゃだめというメッセージを発しているというのである。

「ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生」と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレヴァス」があります。」

こういう、わかりやすい例を踏まえながら、彼は、学びの主体性ということを語る。

『学ぶということは創造的な仕事です。それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。だからこそ私たちは学ぶのです。私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。 私たちが先生を敬愛するのは、先生が私の唯一無二性の保証人であるからです。』

 

自分のかけがえのなさを確認するために、自分は学ぶ。そうなのである。いくらお金儲けや、出世のための技術論があっても、どこかで、そういったものは学び続けられなくなるのである。時折は、そういった寄り道はあるのだが、人間が生き延びるために必要な学びは、自分はかけがえがない存在だという確信を得るためなのだ。人生も後半になって、つくづく感じるのはそういうことなのである。

家庭、学校、会社とあらゆるものが資本主義的論理の中に絡めとられていく中で、そんな寒々とした生の実感を覆すような根源性が、内田のくりだす先生論の中にはあるような気がする。

 

結局、人間にとって大切なのは、自分がなぜ生まれ、ここに存在し、そして死んでいくのかということなのであり、それ以外、偉くなろうが金持ちになろうが、それはすべて枝葉末節なのだということをしみじみと考えなおすことができるという意味で、やっぱり、これは古典と呼ぶにふさわしい本なのだ。

 


【書評:By 紙魚】

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