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書評:黒沢清の『回路』の怖さについて

 

自分の関心がある一定の振幅の中に入ってくると読みたくないもの、見たくないもの、選択したくないものばかりになる。その結果、そういった時期に読んだり、見たりするものが消去法的に決まってくる。すると偶然選んだものの共通項が見つかるようになる。良く考えてみると、それは主観的に「偶然」と感じているだけで、自分の志向性が狭った時に消去法的に自分が選択するという意味では、偶然とは言えないのかも知れない。

 

黒沢清の映画をはじめてみた時のことを良く覚えている。

回路という映画だった。

 

彼の描き出す、夜がとても怖かった。

もともとホラーに弱いぼくは、前半の得体の知れない、他人と切断されたような夜の感じが怖くて仕方がなかった。コンピュータスクリーンに現れる密室とそこに蠢く「幽霊」たちの姿や、それぞれが住んでいる部屋の中の怖さ。後半は若干「観念映画」的に上滑っていく感じだったが映像の持つ得体の知れなさという点に地力を感じた。

今回は黒沢清の「回路」のことを書こうか、同じ時期にずっと読んでいた本のことを書こうかにちょっと迷った。

さっきの話ではないが、別々の体験なのに体験するぼくの状態がどこか共通している。

その本、永井均の『子どものための哲学』というタイトルには騙される。

 

実は、これはお手軽な啓蒙的哲学パンフレットじゃない。たかだか200ページ強の本なのに読み飛ばすことができず、かなりてこずった。

「自分で哲学をするための入門書」なのだそうだ。永井均が子供の頃に感じた哲学的難問を読者と共有しようという試みだ。曰く、ぼくはなぜ存在するのか、悪いことをしてはなぜいけないか。この二つともにかなりラジカルに読者の中に切り込んでくるトピックだ。

 

ぼくは独我論(*脚注)をめぐる前半に囚われてしまった。

『ほんとうの問題、ほんとうの不思議さは、他人の心の中がのぞき込めない、なんてことになるのではない。たとえのぞき込めたとしても、問題は増えも減りもしない。ほんとうの不思議さは、ただ、ぼくとぼく以外の人のあり方がこんなにも根本的に違っていること、そしてそれなのに、これほど違うものが一括してたとえば「人間」と呼ばれること、にあるのだ。

自己意識を持った生き物はたくさんいる。でも(ぼく)はいない。そのとき世界には何が欠けているのか。つまり「ぼく」たちがたくさんいるのに(ぼく)がいないとき、世界は何を失うのか。逆に現実がそうであるように、たくさんの「ぼく」たちのほかに(ぼく)がいるとき、世界には何がつけ加わるのだろう。』

 

この本を読みながら2つの記憶が甦った。

小学生の頃に、相当重病かも知れないということで一月ばかり自宅療養していたことがあった。ぼくはその時、もっとも哲学という動きに近かったような気がする。自分がもし死んだら、その時世界は何を失うんだろう。ぼくがいなくなった朝、もし晴れていたら、ぼくが大好きな青空は昔同様、胸が痛くなるほどきれいなんだろうか。そんなことを布団の中で悶々と考えていた時のこと。

そして大好きだった祖母が90歳で老衰で死んだ時、病院、葬式とコマ送りのような流れの中で、祖母の部屋で、祖母の存在と不在の変わり目を経験した時の不思議な感覚。祖母の存在というのは結局自分の意識あるいは記憶の中にしかなく、だとすれば存在することと存在しないことの境目には何があるのだろうかと感じた時のこと。

 

その時はたしかに今よりも哲学をしていた。

生きるものと死んだものの境界が外れて、目の前から他人が消えていくという黒沢の映像が、こういった独我論的感覚を鋭敏に表していた。時代に対する鋭敏さで有名なこの映像作家がとらえた現代は、こういった独我論的な空気に満ちているのだろう。

 

*独我論 自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする考え方である。

 


【書評:By 紙魚】

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