企業再生Media

コラム

カテゴリ:
映画評:恋する人工知能「her/世界でひとつの彼女」

iPhone6のOSを11にアップグレードした途端、電池の減りが尋常じゃなくなった。いろんなことを考慮したあげく、結局iPhone8Plusにアップグレードした。

僕たちは、結局、使い勝手の囚人になってしまっている。そしてそれが、機能向上というよりは、本質的な電池がどれだけ持つかということになってしまったところが途轍もなく皮肉な気もする。これ以上の機能を必要としてはいないが、一日で何度も充電しなければならない不快さには耐えられなくなったのだ。

そんなとき、革命的なSF映画を観た。

Siriの声に恋をする男の話だ。

スパイク・ジョーンズ(Spike Jonze)の「her/世界でひとつの彼女」(2013年12月公開)

(どうでもいいことだけど、ジョーンズのスペルがJonzeだということを初めて知った。)

 

近未来のメトロポリスが舞台だ。ビッグデータが蓄積し、AI技術、ホログラム技術が格段に進化しているようだ。人間は皆、小さなスマートフォンを持っている。小さなスクリーンもついているが、ホログラムスクリーンがいたるところで利用可能になっているので、大きなスクリーンは必要なくなっている。

ゲームもホログラム技術を取り入れて、格段に進歩している。立体的な体験が可能で、ゲームに登場するプレイヤーも、人間味あふれる対応をしている。

このあたりの、技術環境の描写が、きわめて肉感的なのだ。Tangible.肌障りが感じられる映画だ。しかも、普通のSFとは違い、今、僕たちの現在の生活感覚の地続きのところを描写している。未来が、今この瞬間の僕たちの現在の中に胚胎しているという実感、手触りを感じられるという意味で、革命的な映画なのだ。

 

肌触りが感じられるSFで、すぐに思い浮かぶものが二つ。

一つはリドリー・スコットの「ブレードランナー。主人公のハリソン・フォードが、手がかりの写真の拡大等作業をコンピュータに音声指示をするシーンだ。当時、技術描写の生々しさに衝撃を受けた記憶がある。

もう一つは、小説。伊藤計劃の「虐殺器官。近未来の恐るべき陰謀をめぐるハードなSFなのだが、ミクロな技術環境の描写の肌触りが、Spike Jonzeの描写に通底している。

 

『ぼくはタッチボードを探した。オルタナを充実させているプラハの歩道は、そこらじゅうボードだらけだ。キーボードのイラストが書かれた合成樹脂の板が、いたるところで観光客に顔を向けている。ぼくはボードの前に立って、それを三秒間見つめると、コンタクトが絵をインタフェースとして認識した。キーボードを叩くようにイラストに描かれたキーに触れていく、キーを「押した」手ごたえのような贅沢を求めない限り、本物のキーボードは必要ない。赤い線で抽象化されたキーが描かれていた板でじゅうぶんだ。

視線検出で文字を見つめるだけで入力可能なデバイスも一時期もてはやされたが、一文字一文字視線を移動させるより、指でキーを押したほうが断然スピードが速かったために、視線入力はあっという間に廃れてしまった。

プラハの観光情報をカットアウトするフィルタを起動させて、USAにアクセスする。
(虐殺器官)』

 

幼馴染の妻との離婚を交渉中の、メランコリックなセオドア(ホアキン・フェニックス)が、広告で見つけたアシスタントソフトウェアをPCとスマートフォンに搭載するところから話は始まる。製品名はOS.

(スマホとPCで利用できるアプリという感じなのだが、この近未来では、人間の生活とコンピュータが緻密に組み合わされているので、「自分=肉体+コンピュータDBに蓄積された膨大な自分に関するデータ」なので、その意味でOSというネーミングは原理的に正しいのかも知れない。)

自分をサマンサと呼ぶ、OSの声を演じるのが、スカーレット・ヨハンソン


(写真:ウィキペディアより)

とにかく声がいい。ハスキーな声で、有能なアシスタントから、主人公の既存データと、その後の対話によってコンテキスト情報を蓄積する中で、生身の魅力的な女になっていくのである。

スカーレット・ヨハンソンの声だけが登場しているというのでもない。トップ女優を声で起用することで、その表情や肉体の非在が、なおさら、その肉感性を強めるという作用がある。スパイク・ジョーンズの映画的センスの見事な結実だ。

バーチャルなセックス体験も可能になっているようで、彼とサマンサの恋愛感情はどんどん深くなっていく。

生身の女の肉体は持たないが、その扱いにくさのないサマンサはある意味、内向的なセオドアには理想の恋人になっていく。

デートをした女性も、セクシーで魅力一杯なのだが、結婚を焦っていて、厄介な感じだ。離婚協議中の妻も、OSを恋人だと告白したセオドアを感情的に攻撃する。

セオドアには、男女を問わず、友達は少ない。唯一心が通うのは、大学の頃、ちょっとだけ付き合って、今は、親友といってよいエイミー(エイミー・アダムス)だけ。

ゆるやかに、自然な感情で、サマンサとセオドアの恋愛物語が描かれていく。

 

しかし別れがくる。多数の人間の感情と交流をする中で、進化したOSが突然、どこかへ去っていくのである。

「地球幼年期の終わり」のクライマックスの究極的進化の記憶を喚起するような終わりである。

 

多くの先駆的SFの記憶をちりばめながら、この映画は、僕たちの現在がSF的感性とデッドヒートを行っていることを、映像的に実感させてくれるという意味で、そのリアルさが、革命的なのだ。

OSはいったいどこへ行ったんだろう。

 

そこに、この映画のような神話性はないのかもしれない。しかし、ビッグデータの蓄積というものには、どこかに神話性のようなものがあるような気もする。

まさに時代はSF的想像力を完全に追い越してしまった。

 


【書評:By 紙魚】

コメントは受け付けていません。