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書評:後藤正治『天人 深代惇郎と新聞の時代』

最近はインターネットメディアや右派メディアの朝日叩きが盛り上がっている。どちらかと言えばリベラルというよりは中道(どっちつかずの婉曲話法)に属している自分だが、このあたりにはかなり違和感を感じる。

朝日の型通りの左派的意見に対する違和感より、右派メディアの執拗な朝日叩きに対する違和感の方が強い。メディアによるメディアリンチという自損行為への驚きと言い換えられる。

それが現在の政権の姿勢に帰するものかどうかという議論自体には興味はない。リベラル派ならばそういう政治的無関心が多くの害悪を生み出したのだと言うのだろうが、時の政治がどのようになっていくかということには断固として無関心でありたい。

 

しかしそんな僕だが、朝日を購読している。

ただ購読しはじめたのはかなり最近で、朝日がデジタル版を始めてからで、メディアによる朝日叩きが盛り上がりだして以降である。

いわゆる声のでかい輩が嫌いという根っからのへそ曲がりもあるが、どこかで、もう一度朝日を読もうかと思った理由の中には、天声人語に対する懐かしさがある。

今の天声人語が取り立てて魅力的だからということではない。むしろ毎日がっかり、うんざりさせられることの方が多い。

しかしやはり一時期の時代を支配する影響力を持ち得た天声人語という伝説、より正確に言えば、その伝説の中心を占める深代惇郎というジャーナリストに対する尊敬の念はなくなることがない。そんな朝日新聞の神話時代を描いたノンフィクションを読んだ。

天人 深代惇郎と新聞の時代

『文章は滑らかにして自在である。難しいことをわかりやすく伝えていく。曖昧さがない。書き出しから一気に話題が転換することがしばしばあって、結語はまず予測できない。構成に定まった形というものがない。古今東西の、政治、社会、文化、歴史…への造詣と見識の深さはおのずと伝わってくるが、あくまで自分のアタマでモノを考え、言葉を紡ぎ出している。文体は抑制が利いていて、ウィットに富んでいる。そして、文の背後に、血の通った一人の人間が立っている――。』(後藤正治)

後藤正治が、夭逝した名コラムニストの深代惇郎について語った言葉である。

資本主義に頭から呑み込まれる過程で、いつしか、「事実」というものに引きずられて、「真実」というものから遠ざかっていた時期がある。しかし真実というものは、事実に、人々の心の奥底にある情念の迸りを加えることでしか明らかにならないものなのである。

戦後リベラリズムの黄金時代についての郷愁であり、かつ、朝日、読売、産経など当時の主要新聞社が擁した名記者、コラムニストたちの評伝であり、かつ、彼らの名文の詞華集のような「天人 深代惇郎と新聞の時代」を一気に読んだ。

あらゆるページに、時代の匂いと、その時々に、自分が感じた記者たちへの憧れのような気持ちが蘇ってくる。

深代惇郎は2年9か月という短い期間、毎日、天声人語という800字を書き続けることで、その短い生命のすべてを燃やし尽くした。

深代惇郎の天声人語 (朝日文庫)

 

毎日何かを書き続けるということだけでも大変なことである。それを彼の水準で継続したということの壮絶さを痛感する。

そして天は、この天人を1975年12月17日午前3時にせっかちに回収することになる。
46歳。死因は、急性骨髄性白血病。

『コラムニスト・深代惇郎にあった特徴のひとつは目線の低さである。権力や権威というものに伏する志向はまるでなかったし、地位や肩書きというもので人を見ることもなかった。好悪の念を表に出すこともめったになかったが、独りよがりの高慢さは嫌った。それは生来の気質であり、自身の歩みのなかで身につけていったものであろうが、下町に身を置いて過ごした歳月が自然と培ったものもあるのかもしれない。

深代を言い表すものとして、リベラリストと言う言葉を使っても差支えあるまい。リベラルの原意「個人として自立した自由の民」という意においてである。それを養ったものは
<教養>と<時代>であったろうが、ここにもまた<故郷>がかかわってあるように思えるのである。』(後藤)

折しも、戦後を支えた既存ジャーナリズムが、大きな転機を迎えている今こそ、戦後ジャーナリズムというものを「可能性の中心」としてとらえ直す必要があるのかもしれない。

最後に、後藤さんが引用している深代惇郎の天声人語の中で、どうしても転載しておきたい一文があった。深代さんが亡くなる3か月前に書いたものだ。

『夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった

▼美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに、日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく

▼私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊りつかれた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった

▼もう一つ、夕焼けのことで忘れれがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本「夜と霧」(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない

▼囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え挙げる美しい雲」がある

▼みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語り掛けるという光景が描かれている。』

(1975(昭和50)年9月16日)

 


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