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コラム

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2011年3月11日 ①

阪神淡路大震災(1995年1月17日)、東日本大震災(2011年3月11日)。

僕たちを取り巻く世界は、それを契機として、何か、言葉にできない形で変化してきた。
地震大国に住む僕たちは、それを受け容れ、粛々と生きていた。しかしある日、自分たちが、それまでの自分とは全く違う意識の中で生きていることに気づき、ぼう然とするのだ。

ここしばらくは、7年前に起きた、その後東日本大震災が起きた時に書いた日記を読み直してみようと思っている。

その頃の僕たちと今の僕たちのどこが違ってしまったのかをわかりたいからだ。しかしどこかで、結局、わからないのだろうなという諦めの気持ちもある。それがその時代を歴史的にではなく、同時代的に生きるということの本質だからである。

 

 2011年03月11日(金)

南北線に乗っていた。永田町の駅で、停車時間がちょっと長いのかなと読んでいた本から目をあげると、車両が揺れはじめた。地震だ。随分、大きいし、長い。乗客は、判断に困っていた。地下鉄が動き出すのを待つべきかいなか。

ぼくは、雑踏が嫌いだ。すぐに、地上に出ることにした。まだ、出口へ向かう人の流れはまばらだった。改札は、オープンになっていた。途中エスカレータが止まっていたりする中、黙々と地上を目指した。

一般財団法人消防防災科学センター「災害写真データベース」より

 

地上に出て、最初の気づいたのは午後3時にしては、路上に多くの人がいることだった。オフィスビルの前に、多くの人々が集まっている。それがビルごとに起こっているので、路上は途方に暮れた表情でいっぱいになった。

携帯電話は案の定、全く機能しない。メールも見られない。

次の目的地の新宿には行けそうもないと瞬間に思った。

ビルの前に立っている人の中には、ヘルメットと防災バックを抱えている人もいた。もう怖くて、ビルに戻れないと泣き顔になっている女性がいる。

地下鉄の中で感じた揺れも、高層ビルの中では相当に増幅されたのだろう。

携帯ラジオをつけると、震源地が東北地方であることや、津波の危険があることが繰り返し報じられている。携帯電話を忘れても、ラジオだけはいつも身につけていた。こんな時のためだ。

他人は、神経質すぎると笑うが、実際、数年に一度は、携帯ラジオを身につけていてよかったと思うことがある。

 

人どおりが少ない路地を通って内堀通りに入った。英国大使館近くは、ヘルメットをかぶった外国人たちが目につく。左手に英国大使館を見ながら歩いていると、千鳥足のようになった。かなり強い余震だ。ラジオも、スタジオが揺れるので、リアルタイムにパーソナリティが、余震について報じている。

しばらく、立ち止まって、電柱の先の避雷針が揺れるのを眺めていた。

内堀通りを抜けて、靖国神社についた。トイレを探して、神社に入った。靖国神社は、防災拠点になっているらしく、勤め人の集団でいっぱいだった。神社の左奥の方にある池の前のベンチに座って、PCを開いた。やはりネットには繋がらない。しばらく休憩しながら、どうしようかを考えた。

おそらく、オフィスは、同様な状況だ。となれば、ワイアレスではネットに接続できないとすると、接続性を回復するには、自宅に戻って、ケーブルに繋ぐことだと思った。幸い、歩けない距離ではない。


一般財団法人消防防災科学センター「災害写真データベース」より

 

とんでもない金曜日になってしまった。

携帯ラジオがあるので情報は逐次アップデートされた。どんどん地震の大きさが伝えられる。靖国通り、外堀通りと歩いていると、自然、帰宅の波の中に巻き込まれた。比較的早い時間だが、帰宅の指示がでた企業も多いのだろう。

 

2時間ばかり歩いて自宅についた。

ケーブルを繋ぐと、ウェブは正常に機能している。停電にもなっていないようだ。余震は続いている。オフィスは、地震の時点で閉めて、社員に帰宅指示をしたようだ。皆、徒歩で自宅を目指しているようだ。

それ以降は、テレビもラジオも震災放送一色で、息を飲むような津波の映像が、繰り返し流されていた。


一般財団法人消防防災科学センター「災害写真データベース」より

 

ツイッターやメールで知人の安否確認をしたり、外で、復旧を待っている社員や家族に対して、繋がりにくい携帯やメールで、地下鉄の復旧状況を逐次伝えたりしているうちに、3月11日は過ぎていった。

 

東京でも余震は続いている。

自然というものは、こうして淡々と、人間の暮らしというものが、根本的な無根拠性に基づいていることを、暴力的に知らせようとするのだ。

 


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