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2011年3月11日 ③『日常が回帰し、他責的言説が跋扈する』

筆舌しがたい実体験の後にも、日常は戻ってくる。

東日本大震災という大災害に、身体と精神の両方を揺るがされた、僕たちの前にも、等しく日常は帰ってくる。その物理的災厄の中心から離れていればいるほど、その精神の比重が大きくなり、不安感は抽象的になる。

不安感は抽象的になるというのは、ある意味、冗長だ。抽象的だからこそ不安になるからだ。

おそらく災厄の中心には抽象的不安感など存在しなかったはずだ。目の前に乗り越えなければならない具体的な問題が厳然と存在していたからだ。

その意味で、東京で生活していた、僕たちが思い出す災害は、抽象的不安感で満ちている。そしてその不安が独り歩きをし始め、自分たちの周りを支配してしまうことになった。

翌週の月曜日は晴れていた。そして僕たちはいまだ正体の明らかにならない不安と目の前の不便さの中で、疲労感を増し続けることになる。

 

 2011年3月14日東京新聞夕刊 【3・11後 一週間の東京新聞一面(2011年)より】

《2011年3月14日(月)晴天

「東電の輪番停電の情報、交通情報などが、安定しないこともあって、朝の通勤は混乱したようだ。

早朝に動いたので、乗り継いだ営団地下鉄は順調に運行した。

オフィスの状況を確認し、従業員の通勤可能状況をメール等で確認し、原則、在宅勤務の指示をして、帰社することにした。山手線は、2割程度の運行とかで、大変な混雑で、ゆっくりとした速度。

移動中もラジオを聞いている。福島原発の状況の進展が小刻みに告げられ、そのあいまに、輪番停電が開始するかどうかのニュースと、被災地の情報が流れる。

JR,地下鉄、東京電力と、未曾有の災害に必死で対応している。マスコミの質問の、批判的な口調が、神経に障る。

責任者を出せというトーンはやめてほしい。このトーンが、多くの人間の心の中にとても重い澱のようなものを蓄積させる。

疲労感が強い。

夕方の池袋。壁面の映像広告をやめているせいか、いつもよりも暗い。しかし、いつもよりも夜らしい。夜らしい夜を思い出すべきなのかもしれない。》

 

抽象的な不安感以外にも、壁面の映像広告が停止になっていることで、「懐かしい夜らしい夜」が戻ってきているという日常意識の中の発見があったことが印象的だ。

 

2011年3月15日東京新聞朝刊 【3・11後 一週間の東京新聞一面(2011年)より】

《2011年3月15日(火) 曇り

(720am)

東京も余震が続く。

計画停電、公共交通の運行状況が低水準。テレビ放送がすべて被災地の悲惨さを報じるという異常環境の中で、直接の被災地ではない場所に住む住民の心理にも大きな影響を及ぼしている。

精神衛生上、自分にかかわりのある部分にだけ集中することにした。

特に、ツイッターやテレビで、福島原発の動向について一喜一憂するのをやめた。

情報を最大限集めて、自ら判断することに現状での意味はない。

現状は、政府、東京電力、自衛隊などの判断に委ねざるを得ない。

ぼくはむしろマスコミ等の批判とそれに伴う世論というものへの配慮が、結果責任だけを追求する鋭角な判断と行動を損ねることをぼくは恐れる。

今、マスコミが何を言おうと、この環境で危機管理にプラスの影響を与える可能性は少ない。いきおいパニックを生み出すだけだ。

政治家が確信犯的に生み出した帰結に対する結果責任を「事後的に問う」こと、それが政治ということである。

ぼくは、停電情報、列車運行状況だけにフォーカスして、パニックに陥らぬようにし、前を向いて自分の人生を生きようと思う。

 

「他責的な言葉使い」に対する不信感というか、憎悪に近い感覚を感じている。あれから7年間経つが、自分をどこか高みに置いた他責的言説の、究極的な無責任さ、非倫理性に対する違和感は強まるばかりである。マスメディアというものの社会的価値がこの頃から決定的に失われていったのかもしれない。その間隙をついて、それを悪用する劣化した政治的精神が跋扈しているのは、残念ながら、皆の良く知っている事実だ。

 


2011年3月15日東京新聞夕刊 【3・11後 一週間の東京新聞一面(2011年)より】

《2011年3月15日(火)東京 曇り

(1154 am)

全体の交通状況を踏まえているわけではないが、少なくとも、南北線と都営三田線が白金高輪までしかいかないこと、終日この状況が変わらないことだけは社内アナウンスや駅員の説明でわかった。

電力不足というものが、ここ10数年の未曾有の利便性というものを瞬間に全否定してしまったことは明らかだ。

都心まで何十分という謳い文句で販売された比較的郊外からの、一斉通勤というモデルが現時点では崩壊しているわけだ。

この電力状況を前提とするならば、一斉通勤という経済モデル自体も変化せざるを得なくなるのかもしれない。

NHKのニュースは、福島原発問題一辺倒。

このトピックにおける問題は、伝えている人間にも、受領している人間にも、中途半端な知識しかないということだ。

さらに専門家と呼ばれる人々も、原発の危機管理の総合的専門家などという人がいるはずもなく、それぞれの領域の中での専門家として正しい発言を繰り返すばかりだ。

問題なのは僕たち普通の人間が知りたいのは、それが自分たちにとって一番重要なこと、つまり、自分にとってそれがどんな意味を持つかということへのシンプルな回答にはなりえないということなのだ。

それが今の僕たちのフラストレーションと混乱の原因なのだ。

Evacuation zoneに住む人々と、それ以外の人々にとって必要な回答は、当然ながら、同じではない。

Aという地域の人には大変だが、Bという地域の人は大丈夫ですよというメッセージは公共放送という立て付けでは難しいということは理解できる。これが全国放送というものの報道の意味である。当然、災害の中心地から離れれれば離れるほど、全国放送で伝えられる情報は過剰に感じられる。しかしそれを過剰と感じること自体に、非倫理性を感じてしまうのだ。現代社会というものの難しさだろう。

政府のパターナリズムによる情報統制がうまく行かないのは、こういった複数の当事者に対する妥当なメッセージを出すことが極めてハードルの高い課題だからだろう。》

 

NHK東日本大震災アーカイブス「地震発生から72時間より

 

責任者を出せというような他責的なマスメディアが、こういったパニックの際に果たすマイナスな役割が明らかになっている。このようなメディアが引き起こす負のメッセージへの対応や「忖度」によって、政府当局の本来行うべき思考や活動の時間が奪われるということである。とりわけ選挙に生命線を握られている政治家という生き物には、致命的な悪影響を与えるのである。他のどの制度よりマシとはいえ、最悪なシステムである民主主義というものと生きて行かなければならない僕たちの重い課題である。

 


【 紙 魚 】
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