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Re-post: ユーミンが荒井由実だった時代
誰にでも(少なくとも僕には)心に長く残る歌がある。
人生の時々に、何度聞き返しても、はじめて聴いた日の感情が、まるで、アルプスの氷河の中に凍結されたように、その日のままに保存されている歌。
当然ながら、そんな歌は多くはない。
メロディ、歌詞、そして、それを歌う人の声の幸福な組み合わせと、それに心を震わせる特定の感受性の瞬間があって、はじめて、最初の想いの永遠性が保たれる。
僕にとってのそんな曲はと考えてみた。
加藤登紀子「愛のくらし」
中島みゆき「この空を飛べたら」
薬師丸ひろ子「Woman」
そして荒井由実の「旅立つ秋」。
デビュー時の荒井由実と、サブカルの拠点のようなTBSラジオの伝説のパックインミュージックという深夜番組のDJ林美雄、そして無名の天才沼辺信一というリスナーの間の、奇跡のような幸福な三角形と、その緩やかな死を描いた傑作ノンフィクションがある。
【「1974年のサマークリスマス」 集英社 柳澤 健 (著) 】
僕は、その頃、深夜から早朝の時間帯だけ、奇跡のように電波が届く地方都市で、勉強机の横の携帯ラジオで聴く林美雄のパックの第2部から、まだ見ぬ東京で繰り広げられる若い映画作家たちの日本のヌーヴェルバーグの息吹をかすかに感じていた。
スポンサー枠のつかない時間帯で、独断と偏見での放送を行う異形のDJ林美雄は、荒井由実という若い才能にほれ込んだ。
一流大学で、学者としての将来も期待されていながら、あえて、世に出ることを拒否した、知られざる天才沼辺信一のこんな言葉は、まさしく、僕が吸っていた同時代の空気だった。
林さんは「ひこうき雲」が世に出てすぐ、一九七三年秋からユーミンの紹介を始めるのだが、誰もが寝静まった深夜から早朝にかけてラジオから流れてきた「ひこうき雲」や「ベルベット・イースター」には格別の味わいがあった。こんなにも繊細で内省的な音楽を紡ぎ出す少女がこのニッポン国に出現したのだという予期せぬ驚きと嬉しさに心が震えた。番組の最後に「雨の街を」がかかり、そのあとトランジスタ・ラジオを切って外気を吸いに表へ出ると、白々と開けてきた街路はひっそりと静まりかえっていて、まるで歌の世界のまんまだとひとりごちたのを今でも覚えている。
(沼辺信一のブログ「私たちは20世紀に生まれた」)
政治の季節が終わりを告げつつあった時代だ。急激に失われる世の熱量に対するあきらめと苛立ち。かけつけた時には、既に祭りが終わっていることを繰り返し経験する、世代を、僕たちは一様に生きる運命を共有することになる。
そんな心情を、林パックは深くつかんだ。
その後、荒井由実は、誕生の頃の奇跡に留まることではなく、ユーミンという商業音楽の製作者として生きる決断をして、メジャーなミュージシャンとしての道を駆け上がった。
初期の荒井由実を支えたディープなファンたちは、それに深く絶望し、一人一人去っていった。60年代のアメリカンポップスのコピーを、かつて特別な人だったユーミンが作るという醜悪さがこういった人々には耐えられなかったのだ。
朝方だった僕は、ラジオの受験番組終わりの早朝に、ラジオから流れるユーミンの「やさしさに包まれたなら」を初めて聞いた。
誇張でなく、身体に一種の電流のようなものが流れたのを覚えている。
この世のものではない、特別な、アウラとしかいいようのないものが、空から降ってきた。
Cobalt Hour以後のユーミンは、おしゃれだけれど、初期のファンたちが愛した「心ある歌」ではなかった。
思いあぐねた、沼辺は、荒井由実に、あなたしか書けない曲が訊きたいと伝えた。
松任谷由実は、そのことをインタビューの中でこう振り返った。
「やさしさにつつまれたなら(MISSLIM収録)と言う曲は、自分でいうのも変なんですけ、すごく特殊な歌で、もうかけないな、っていうものなんです。インスピレーションというか、今、振り返ると、何であんなことを書けたんだろう、と思うような内容。(中略)荒井由実のころって、私はほんとうにインスピレーションで、というかインスピレーションというものがあるということも意識せずに書いていた時期があるんです。そうしたら、いつしかそれができなくなった。これはもう、自分で書いて書いて見つけるしかないなって気持ちで….。」
(松任谷由実「月刊カドカワ」1990年1月号)
ユーミンがプロの音楽制作者として道を歩み始めたのと同じく、スポンサー枠のつかない解放空間という奇跡も終わりを告げることになる。同時間帯で他局の、深夜トラックの運転手対象の番組に自動車メーカーのスポンサーがついた。ライバルの自動車企業がこの時間枠に関心を持ち、サブカルの解放空間は一瞬にして消滅した。
その後、紆余曲折を経るものの、普通のアナウンサー、管理職に戻った林美雄のその後の人生も、また、祭りの後を生きたと言える。そして、彼の切り開いた、新しい才能への関心は、よりメジャーな仕組みの中に回収されていく。
その後、林は、若くして、病魔に倒れ、卒然と、天に戻る。
2002年、享年58歳。
どこを切っても、鮮烈な血が迸るようなこの本のクライマックスは、林のお別れの会だ。
2002年8月25日。新高輪プリンスホテルで、多くの友人たちが開催した「サマークリスマス」。
林が愛した歌手たちが、それぞれに歌った。
石川セリ「八月の濡れた砂」
山崎ハコ「サヨナラの鐘」
原田芳雄「リンゴ追分」
最後に登場したのはユーミンだった。
多忙なスーパースターが姿を見せたことへの驚きで会場は大きくどよめいた。
短い挨拶のあと、ユーミンは「旅立つ秋」を歌った。
林パック(金曜二部)最終回の1974年8月30日、番組を終える林美雄に、はなむけとして贈った曲だ。
“愛はいつも束の間、このまま眠ったら 二人これからずっとはぐれてしまいそう
明日あなたのうでの中で笑う私がいるでしょうか秋は木立をぬけて 今夜 遠く旅立つ
夜明け前に見る夢、本当になるという、どんな悲しい夢でも、信じはしないけれど
明日霜がおりていたなら、それは凍った月の涙
秋は木立をぬけて 今夜、遠く旅立つ、今夜 遠く旅立つ“
会場の片隅で寄り添うように佇む荻大の仲間たちは涙していた。
「旅立つ秋」が、まるで今日ここで林美雄に永遠の別れを告げるために、ユーミンがあらかじめ作っておいた曲のように思えたからだ。
自分の人生に寄りそうように支え続けてくれる歌というものが、誰にでもある。
それはアルプスの氷河の中に何万年も凍結されたかのように、初めて聞いた時の、痛み、喜び、疼きをいつまでも保存してくれる。
見知らぬ誰かにそんな宝物を与えようと、日々、身を削る歌人たちは、まぎれもなく、聖なる職業と呼ばれるべきなのかもしれない。
【 紙 魚 】
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